2015年9月30日水曜日

断捨離?

より少なく消費し、より少なく賃労働する。なぜより少なく消費するのかは、より少なく賃労働したいから。
それに加えて、生活する上で物やサービスに使う無駄をどんどん削ぎ落してみたいという欲求がある。断捨離?
必要なものはバック一つに収まって、どこへでも移動して生活できるような身軽さへの欲求。
俳句とか、岩だけがある日本庭園とか、わびさびの精神に通じるものもある気がする。シンプルさ、簡潔さへの欲求だ。

2015年9月19日土曜日

低消費生活か結婚か

低消費生活の人でも、結婚したい・家族を持ちたいと思っているか、一人で生活したいと思っているかという立場の違いがある。
外国だと低収入の人同士で協力して生活するために結婚するパターンもあるが、日本ではそういうケースは少ない。
本当は結婚したいが、経済的な理由でしかたなく低消費生活をしている人。または結婚できないので結果的に低消費生活している人。それに対して結婚する気がなくて、低消費生活している人。両者の立場の違いは大きい。自分は後者。一人で暮らす気楽さを好むためだ。同じ指向の人と知り合いになりたいが、「低消費独身生活愛好会」を作ったらいいのか。
20年前には、結婚したいかな~と思ったこともあった。しかしその動機は、「仕事を続けていくために、家族を支えるという働き甲斐が欲しい」というものだった。仕事がまずありきだったので、今思うと転倒している。会社に属することが多くのひとにとってアイデンティティの素になっていた時代は、会社員であることが前提になるので、そんな考えの人もいたかもしれない。
またシェアハウスやコミューンなど従来の家族以外の共同生活形態を指向する人もいるだろう。自分が見学したコミューンでは、コミューン内で結婚している人も多かった。
引退世代であればまた話が違ってくる。子供が独立していれば、その分結婚しているか/いないかで、立場の違いは少なくなる。引退世代で暇な人、あるいは低消費生活指向の人とも知り合いたい。現役世代で結婚したくなくて低消費生活という人より、こちらの方が人数は多いだろう。
結婚して、子供を一人ニ人作って、子供を大学までやる。という主流の生き方。それだとお金に依存せざるを得なくなる。結婚するだけで子供を作らないということだと話が変わってくる。また子供を作っても大学へはやらない、ということでも話は変わる。

2015年9月13日日曜日

行政との協力で何かやる案

・シェアハウス
固定資産税の未納等で市が接収した家をシェアハウスにする。
市民に利用用途をシェアハウスに限定して貸す。
生活費の中で家賃が占める割合は大きい。シェアハウスによって家賃を減らすことができる。それで生活保護が減ったら市の財政にもいい

・路上で野菜の行商など小商いをできるようにする
近くの農家から野菜を仕入れて路上で売るなどの小商い。
ニート・ひきこもりが世間で一般的な労働をする前の過渡的な仕事としても考えられる。
ある市で、路上で演奏する人のために市が警察に一括して道路使用許可を申請し、演奏者が市から許可をもらって演奏する、という事例を見た。これだと個々の演奏者が警察に申請する必要がないため、便利。このような形で路上での小商いができないか。
路上以外の市所有のスペースでもいい。公園、川沿い、公民館の駐車場など。

2015年9月2日水曜日

結婚しないと老人になったときさびしいという話

結婚しないと老人になったときさびしいという話がある。その場合は老人になってから結婚したり、シェアハウスに入ったり、茶飲み友達を作ったりすればいいのではないか。実際可能かは個々の状況によるが、切実なニーズが出てきてから動く方が自然と思う。

親世代の年金を通じた子世代への再分配

母親が26歳で子供を作り、平均寿命である86歳まで生きれば子供は60歳。親の年金で死ぬまで生きるニート、というのも成り立たない話ではない。親の年金で子供の国民年金を払っておけば、60~65歳をしのげばどうにかなる。
今の年金制度が崩壊しないこと、持ち家など住居にお金がかからないこと、国民年金月7万で生きられること、などいろいろ前提条件はあるが。親世代の年金を通じて子供世代に再配分されているとも考えられる。

生産性上昇から出た利益の再分配

IT、機械化で生産性が上がっているのに昔より労働がきつくなるのはおかしい。人件費が下がって出た利益の再分配が必要。
共産主義下/資本主義の中道左派下だったら、労働生産性が上がれば労働時間が短縮され賃金は据え置き、または労働時間はそのままで賃金アップとなるのでは。
実際は資本主義下だし、国の借金が大きいので再配分を厚くできない面もある。需要が伸びずに生産性向上が利益に結び付かない面もある。
しかし、各自の理想は保持していくべき。

2015年9月1日火曜日

コミューンについて

共産趣味の人は、一緒に働いて一緒に生活・消費するというコミューンに入ってみるのもいいかも。武者小路実篤創立の埼玉の新しき村、ブラジルのユバ農場に行った。一人で暮らす気楽さを好むため、見学するだけにとどまったが。行ったことはないが、静岡の木の花ファミリーに入った知り合いもいた。新しき村は過疎っているが、ユバ農場は40人くらいいて、平均年齢も若い。
ヤマギシズムは私有財産を全面的に否定し、入るときに財産を寄付しなければならないという過激なものらしいが、これらはそういう過激さはない。私有財産全否定がなんでいやかというと、そのコミューンが合わなくなったとき、そこから出て外で生きていく選択肢がなくなるからだ。生産手段の共有はいいとして、消費財の私有まで否定するのはまずいと思う。
個人でも集団でも、自己観察、自己反省がないと気持ち悪くなる。すなわち独善的になり、押し付けがましくなる。それがカルトの気持ち悪さ。ブラック企業も、「自分たちが利潤追求最優先で仕事をしていることは正しい」という考えに無自覚にはまっている。無自覚にはまるところの「自分たちは正しいという考え」は、どんなものでもいい。無自覚になれば、どんな集団でもカルトになる可能性がある。「ヤマギシ会見聞録」近藤衛を読んだ。 1999年のヤマギシ会への潜入ルポ。この時期のヤマギシ会は気持ちが悪い。今は穏健化しているかもしれない。経済的な相互扶助だけ考えれば、コミューンに入るのもいいだろうが、そこが精神的に気持ち悪い所なら意味が無い。
コミューンでいうと、新しき村は気持ち悪さを感じなかった。一つは、コミューン内で生活する村内会員と、外の世間で生活する賛同者の村外会員という二本立てで構成されていること。それにより、一定の客観性が担保される。村外会員は会費月500円で、機関誌が送られてくる。一般財団法人になっているのだが、その代表である理事長も村外会員の人がやっている。もう一つは、外部との交流があれば、独善に陥る傾向は薄まる。埼玉の村は坂戸の住宅地に囲まれているため、近所の人が村内で犬を散歩させていた。ある村外会員と話したところ、「君は君、我は我、されど仲よき」と、押し付けがましくないことを理念として掲げているためではないかとのこと。ブラジルのユバ農場も気持ち悪さは感じなかった。全体主義は押し付けがましい。全体主義でもなく、個人主義でもなく、全体と個人の両方を尊重し、両立をめざすのがいいと思う。